ソフトウェアに料金を払うとき、私たちは何を買っているつもりでしょうか。No Jitterの報道によると、Salesforceのエージェント型AIプラットフォーム「Agentforce」の年間経常収益は15億ドル(約2,340億円)を超え、前年同期比で240%以上伸びています。ソフトウェアの利用権ではなく、仕事の成果そのものを顧客が買える時代が来つつあるという指摘です。
顧客が「何にいくら払っているか」を測る物差しが変わるとしたら、値付けの前提から見直す必要があるかもしれません。
Salesforceが示す「席」から「仕事」への移行
No Jitterが報じた内容によると、Salesforceの製品担当幹部であるPatrick Stokes氏(Salesforceのapplications and marketing担当社長)は、SalesforceのClaude連携について「knowledge-workerエージェント」、Agentforceについては「自律的な仕事、あるいは顧客に直接触れる仕事」向けと説明しています。同社はAnthropicとの提携を拡大し、営業担当者がSalesforceの画面を開かなくても、ClaudeからSalesforceのデータやワークフローを使えるようにしました。ソフトウェアの画面を経由しない利用が、正式な提供形態として位置づけられたことになります。No Jitterの記事は、この違いが「従業員の仕事を助けるソフトウェア」と「顧客に代わって定義された仕事を遂行するベンダー」という、まったく別の商取引関係を生むと指摘しています。何を買うか、価値をどう測るか、ベンダーが何を保証すべきかが、それに応じて変わるという論旨です。
なお同社は投資家向けに、2027会計年度から収益の開示区分を「Agentforce Apps」と「Data 360, Platform & Other」の2区分に再編すると発表しています。年度間の比較ができるよう、2025年度と2026年度分の数値も遡って組み替えて開示する予定です。investor.salesforce.comの発表は、Agentforceが、Data 360を基盤とするアプリケーションに組み込まれつつある製品構造の変化を反映したものだとしています。開示区分そのものが変わるという事実は、収益の中身がこれまでの「セールスフォースを使う人数」という発想では説明しきれなくなっていることのひとつの表れと言えそうです。
一方で、この変化を巡る見立ては一様ではありません。Forbes JAPANに寄稿したPeter Bendor-Samuel氏は、AIエージェントが「席(seat)」という価格設定の単位そのものを揺るがすと論じています。ログイン数に基づく価格は、AIエージェントが事実上のユーザーになる世界では実態と乖離していく、という主張です。同氏は、価値ベースや成果ベースの価格設定が解として語られやすい一方、AIがビジネス成果にどれだけ寄与したかを客観的に切り分けるのは難しく、継続的なモニタリングも困難だと述べ、実装のハードルにも触れています。Forbes JAPANの記事はその上で、知的財産に基づく客観的な利用指標と、継続的なカスタマイズを反映する動的な要素を組み合わせた「ハイブリッド型」の価格体系が現実的だとしています。
これに対しnote.comに寄稿した新居祐介氏は、HFS ResearchのPhil Fersht氏が提唱する「Service as Software」という概念を紹介しています。SaaSが「道具」を提供するのに対し、Service as Softwareは「仕事を完結させる」という区分です。同記事は、企業がソフトウェアに1ドル使うごとにコンサルタントやアウトソーシングなどのサービス・労働に6ドルを費やしているとし、SaaS市場が3,900億ドル(約61兆円)である一方、AIエージェントが代替しうる専門サービス・労働市場は4兆6,000億ドル(約719兆円)に及ぶと述べています。note.comの記事はこの桁の違いを、Service as Softwareが注目される理由として挙げています。
対照的な見立てを示すのがManhattan Associatesの記事です。同記事は「SaaSの終焉」論を「数学的に誤り」と断じ、成熟したSaaS企業の研究開発費は総収益の10%から25%程度にとどまり、コストの大半は営業・マーケティング・カスタマーサクセス・ホスティング・運用に充てられていると指摘します。AIがコード生成コストを下げても、それが企業のコスト構造全体に占める比率は限定的だという論拠です。同時に、AIによる推論処理は従来型のデータベース照会より電力とハードウェア資源を消費するため、運用コストはむしろ上がる可能性があるとも述べています。Manhattan Associatesの記事は、顧客が対価を払っているのは「コードの構文」ではなく「特定のビジネス成果を保証するサービス」だと位置づけています。
Salesforceの事例が投げかける、値付けの再定義
出典が示す範囲で確認できるのは、Salesforceが開示上の二つの製品カテゴリーに区分し始めたという事実です。Agentforceプラットフォーム全体の年間経常収益15億ドル(約2,340億円)という数字は、すでに測定可能な収益区分として立ち上がっていることを示しています。ただし、この数字が業界全体にどこまで当てはまるかは、No Jitterの記事も含め、今回参照した出典からは判断できません。No Jitterの記事自体も「同社が収益の識別・報告方法を最近変更した」と留保をつけており、単純な前年比較として読むべきではないという注意を添えています。
一方、Salesforceの投資家向け発表は、収益区分の再編という事実を伝えるだけで、価格モデルそのものがどう変わるかについては踏み込んでいません。Agentforceがどのような課金単位で提供されているか、料金体系がセッション数なのか成果連動なのかといった具体的な条件は、今回確認した出典には記載がありません。したがって、Salesforceの事例から「エージェント型AIは成果ベースの価格設定に移行する」と断定することはできず、あくまで「収益の測り方が変わりつつある」という事実にとどまります。
Forbes JAPANの記事が指摘する価値ベース価格の実装困難さは、この点と符合します。AIプラットフォームの成果への寄与を客観的に切り分け、継続的にモニタリングする仕組みが整っていなければ、成果ベースの価格設定は交渉やガバナンスの摩擦を生むという指摘です。Salesforceがどのようにこの摩擦に対処しているか、あるいはそもそも成果ベースの課金を採用しているかどうかも、参照した出典からは読み取れません。
Manhattan Associatesの記事が示す視点も踏まえると、Salesforceの数字を「SaaSからService as Softwareへの全面移行」の証拠として読むのは早計です。同記事は、成熟したSaaS企業のコスト構造の大半が研究開発以外に割かれている点を根拠に、AIによるコード生成コストの低下がビジネスモデル全体を覆すわけではないと論じています。Salesforceの事例は、収益区分の変化という限られた事実であり、業界全体のコスト構造や価格モデルの転換を裏づける材料としては、今回の出典だけでは不足しています。
用語補足:ARR(年間経常収益)
Salesforceが公表した内容によると、AgentforceのARRは15億ドル(約2,340億円)を超え、前年同期比で240%以上増加しています。また、No Jitterの記事が触れているように、同社は収益の識別・報告区分を最近変更しており、この数字を単純に過去の数値と比較する場合は、区分変更の影響を考慮する必要があります。
編集後記:測定方法が変わる時、比較は難しくなる
Salesforceが収益の開示区分を「Agentforce Apps」と「Data 360, Platform & Other」に再編し、過去2年分の数値まで組み替えて開示するという発表は、地味に見えて重い意味を持ちます。数字を追う側からすると、区分そのものが変わった年度の前後比較は、単純な伸び率としては読みにくくなるからです。15億ドル(約2,340億円)、240%という数字についても、報じた側は、同社が収益の識別・報告方法を最近変更したという点を留保として付け加えています。エージェント型AIが仕事を代行する時代の値付けを論じる記事は増えていますが、その土台となる「収益をどう区分し、どう数えるか」という会計上の変化こそが、まず先に動いているという見方もできます。
